屋嘉比島での空襲と母の遺体を探してさまよった記憶
詳細
義勇隊(少年兵)へ招集されるのは名誉なことだと思っていた
父親の出兵と弟の死、防空壕での集団死
日本兵に「一遍に殺してくれ」とお願いした
座間味村で最初の戦死者であった父
「もう村の人みんな一緒に死んだ方がいいから」と言って集まった
ガマ(防空壕)では生後3ヶ月の妹を「うるさいから殺せ」と言われた
竹槍を持って戦えということは行って殺されなさいといっていることと同じ
3家族15、6人に手榴弾1、2個では自害しようにも死にきれない
「アメリカ軍が来ている、早く首を締めてくれ」そう母に言った姉は冷たくなった
朝鮮人慰安婦はみんな日本語が上手だった
「死んではいけない、私たちはこの島にあなたたちを守りにきているのだから」鈴木隊長はそう言った
漂着物は何でも食べられると思い、ゴムも食べた
米兵がガムをくれようとしたが、母は「毒が入っているからダメだ」と言った
[前編]ベニヤ板の小舟に250kgの爆雷を積んで体当たりをするという話だった
[後編]投降後、収容所で遺骨収集をさせられた