証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
垣花武信さん
マルレ艇について
(マルレ艇)のかっこよかったこと
今のボートは(エンジンで)走るでしょ
昔はエンジンなんてないから
船は漕ぐものだと思っていた
(マルレ艇)は猛スピードで体当たりするため
爆弾を2つ抱えて体当たり攻撃する
(マルレ艇)を慶良間の阿嘉の
東側の海で訓練する
これがもうワクワクして、ましてや
人を殺す(兵器)というイメージはないから
ダーっと水を捲き上げながら
すごいスピードで走るから
頑張れ頑張れと(気持ちは応援していた)
恐ろしい兵器だったけど
そのスピード感に酔っていた
集団自決が決行されなかった阿嘉島
日本軍にお願いして、一遍に殺してくれと
そうしたら楽だから
広場にみんな並んで丸く座って
機関銃が2つあった
祖母に抱かれて「心配しないで、みんな一緒
だからね、天国に行くんだから」といわれた
上地さんという日本軍の使いの者が来て
「今は殺すな」といって
いざという時に、アメリカ軍が近づいて
来た時に殺そうとしていた
アメリカ軍が途中まで来た
ところが引き返した
もうこれ以上攻めても(日本軍は)何もできない
マルレ艇も全部破壊しているから
アメリカ軍は引き返した
もうここは攻めないで、放っておけと
そういうこともあって、隊長の命令で
住民は殺すなということになった
これが、阿嘉の集団自決がない
大きな局面だった
日本兵に殺された沖縄戦最初の捕虜
阿嘉島の戦いで、絶対に忘れてはいけないのが
捕虜第一号が出たということ、この沖縄戦で
私の祖母からだと甥っ子にあたる
おじさんと
神戸出身の女性(おじさんの妻)と
もう1人、親戚のおばちゃん
この3人は
(高齢で)山を登れない
部落の後ろの井戸の近くに壕があって
そこに3人は(避難していた)
そこがアメリカ軍に見つかって
出てこい出てこいといわれて夫婦は出たけど
もう1人のおばちゃんは出てこないから
射殺されたらしい
この夫婦は連れて行かれて
いっぱい缶詰を積んで
これを食べなさいと
もう年寄りだから
何もするわけないから
その前に、アメリカ軍に捕まった時に
写真を撮られて捕虜第1号になった
アメリカ軍がいない間に
日本軍が回ってきて
人の気配がすると入ってみたら
2人が座って(アメリカ軍の食料)を食べていた
(それを見た日本兵が)カンカンに怒って
スパイだといって、歩くこともできない
2人を引っ張り出して
(日本兵に)2人とも惨殺された
そういう事件もあった
押し寄せるアメリカ軍艦隊
もう大騒ぎだった
たくさんの軍艦がやって来るよと
あとで山に登って見たが、船と船を
飛んで渡れるぐらいの船の多さだった
沖縄本島に行く船は
みんなそこに集結していた
ジャズが聞こえてくる
人は生きるか死ぬかで、山に逃げているのに
こっちには大砲はないから
船に撃つことはない
昼は攻撃に行く
夕方に戻ってきて
そこで、また騒ぐ
戦死した故・帆足孝夫氏の御実家へ
帆足孝夫さんは
私もよく知っている
帆足さんの家にも行ったことがあって
そこに80歳ぐらいのおばぁちゃんがいて
帆足孝夫を知っている人がいたら、お呼びして
(当時の様子について)自分が話を聞きたい
本当は自分が行きたいけど
(高齢で)行けないからお呼びしたいと
(そのことを)姉にいったら
行ってあげよう、そんなに親が心配しているのだったら
行ったら
隣近所からみんな集まって
阿嘉島から孝夫の話をするために
来たというと
私はスライドを持っていて
座間味村の風景を撮っていた
風景を見せながら、孝夫さんがいたところはここだよ
ここから出撃したんだよと話しをしたら
ポロポロ涙を拭きながら
話が終わった時には
ありがとうございました
孝夫が帰って来たんだと
それまでは、どうしても気持ちが収まらなくて
島の人から話を聞くまでは
姉も、孝夫さんだけはすばらしい人だった
といっていた
戦後の教員不足
沖縄は学力が低いというけど
問題は、あの戦争で
当然、学校の教員になるべき人たちが
一中、二中、特に師範学校は先生の養成学校だった
(戦争で)みんな亡くなってしまった
みんな戦争で亡くなった、あまりそこをみないで
ただ学力が低いという人がいる
私自身、阿嘉中学から糸満高校にしか行けなかった
那覇はまだ焼け焦げていて、港は軍が使っていた
糸満高校を卒業したら
役場から電話がかかってきた
私と金城くんと仲村くん
この3名、島に帰って来いといわれた
どうしたんですかと聞くと、先生がいない
生徒より教員がいないから、先生をしなさいと
高校を出たばかりですよといったら
それでもいいから来なさいといわれて
戦後どこでもそうだが
免許のない教員、臨時教員をやった
あとから単位講習会を受けて
教員の単位をとって実際に先生になった
戦争で教師になるべき人が亡くなった
ということは大きな問題
復興する阿嘉島で感じたこと
戦後は何もない何もない、ないない尽くしの教育だった
食べるものもない、先生もいない
ノートも本もないという時代から始まっているから
そこをよく乗り切ってきたことは、偉いと思う
はじめのうちは、みんなダラーっとしていたけど
だんだんと舞台なんかに出てきて
元気になろう、頑張ろうということで
立ち上がったことは大きいと思う
子や孫の世代へのメッセージ
(戦争体験)を語れなくなったら
喉元過ぎれば熱さ忘れるで
また考え方が戻っていかないか心配
だから絶えず受け継がないといけない
戦争そのものは絶対許せない
これからの(戦争は)一瞬のうちに破壊してしまう状況
人の命ということを考えると
(命とは)脆いものだよ、儚いものだよ
だからこそ大切にしないといけない