証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
高江洲敏子さん
座間味国民学校の様子
綺麗な校舎があった、2階建ての
その校舎に兵隊が入って
私たちは今ある学校のガジュマルの下で
机を持っていって勉強した
校舎には兵隊が入っているから
それからというもの
勉強はあとまわしにされ、防空壕をつくったり
兵隊の野菜をつくるために畑を耕したり
時には防衛隊のおじさんたちと
運動場で竹槍訓練をさせられたり
勉強は、ろくに出来なかった
10・10空襲での体験
10月10日の空襲、渡嘉敷への空襲が
ここからよく見える、渡嘉敷の山が
村中の人が集まって
友軍の訓練と思っていた
ここにみんな集まって、日本軍が空襲の訓練を
していると思って、頑張れ頑張れと手を叩いていた
もう少しこっちに来たら、よく見えるのにといって
四機編隊で(飛行している様子)を座って見ていた
向こうから
今の避難道になっているところから
(兵隊が)この山道を駆け下りてきて
「空襲警報」と大きな声で叫んだ
その時にあの飛行機は敵の飛行機と知って
それからみんな散り散りバラバラになって
家に戻って、非常用(物資)は準備されているので
それを担いで
ユヒナのガマに向かうなか
(周辺の空)は飛行機が(たくさん飛んでいた)
(ユヒナのガマ)に行く時に、低空(飛行)で
バラバラバラっと撃たれたから
慌ててアダンの木の陰に入って隠れた
その時は誰も弾にあたらなかった
10月10日は
この部落では誰も怪我はなかった
3月23日慶良間への空襲
3月23日の空襲の時はマチャンというところに
堆肥を作りに行く予定だった
父がどこからか情報を聞いてきたのか
今日は情報が悪いから、あなたは行くなといわれ
朝から防空壕に入れられた
畑の防空壕に、弟と2人
夕方になり家に帰れると思って
防空壕の外に出たら
向かいの山が
列をつくって燃えていく
山に火がついているので
電灯で照らしたみたいに明るかった
長いこと燃えていた
1週間ぐらい燃えていたんじゃないかな
木が1本もなかった
(山が)透き通っていた
ちょうど木炭のように燃えていた
真っ黒になって
ヌンドゥルガマでの体験
大潮の時にしか行けない壕(ガマ)がある
潮が引いた時に(行ける)大きな壕(ガマ)が
100人余るんじゃないかな
(それぐらい)入れる自然の壕がある
最初は広々していた
私たちが最初に入っていたから
次から次から座間味の人が来る
阿佐の部落の人が来る
最後には座ったままだった
横にもなれず、人でぎっしり詰まって
ヌンドゥルに入ってからは、父は(怪我をして)
どこにも出られない、壕にこもったまま
だから、兄と母が交代で
妹を私たちに世話させて、芋掘りに行ったり
水汲みにも行く
水は昼に見たら口にできないような水
田んぼに溜まっている、苔みたいなものもユラユラ
浮いている水を汲んできて、それを飲む
火で炊くのは到底できない
灯りが見えたら艦砲射撃される
(食べ物を)炊きにも行けないから
生で食べる、大根も人参も生で
妹はまだ生まれて3ヶ月しかならないのに
母のおっぱいがでない
食べ物もない、だから泣く
ここの壕(ガマ)に入っている人たちが
これ(子供)1人いなくてもいいから
殺せ殺せという
まさか生きた人を殺すわけにはいかないので
母はとうとう妹を連れて
このヌンドゥルガマから
離れたところに夜昼行って
そこでも泣いたはず、私たち家族は
そのままヌンドゥルガマにいた
二本松で見た日本兵の遺体
二本松といって、松が2本あって
部落の人は二本松といっていた
そこに友軍の兵隊が切り込みに行って
そこはアメリカ軍が陣地をつくっていた
切り込みで行ったら
みんな機銃でバラバラと撃たれた
アメリカ軍が
大きな丸い穴を掘って
(穴に)みんな薪でも放り投げるみたいに
投げられていた、それを(遺体)を見た
道のそばで木を摑んで死んでいる兵隊とか
死体を踏み潰して歩いても
可哀想とも思わない、なんとも思わない
自分たちも明日はこうなるかもしれないと思う
情も情けもない、戦争というものは本当に怖いもの
国民学校に仮埋葬されていた死体
今の学校の運動場は、アメリカ軍が
どこで亡くなったのかは知らないけれど
(運動場に)穴を掘って(遺体を)埋めて
十字架を立てた
それを戦後、全部掘り出して
島の住人に洗わせた、アメリカ兵の遺体を
兵隊があっちこっちで
死んでいるのを見たり
お腹が大きく腫れて倒れているのを見た
だから、もう生ものは一生口にしたくない
戦死した2人の兄
兄はこの戦争が始まるまでは、鹿児島で
砲術学校をでて、大砲の係りで鹿児島にいた
上陸前に沖縄に移動になって
母と2人面会に来てくれといわれて行った
その時は垣花小学校にいるから
ということで、そこに会いに行った
その時から兵隊同士で情報があったと思う
母に「いつでも逃げられるように、非常用(物資)を
いつも枕元に置いて寝なさいよ」といっていた
そして間もなく(アメリカ軍が)上陸している
会いに来てくれといった兄も、未だに遺骨さえ
(どこにあるか)わからない、沖縄本島で
どこでどうして死んだのかもわからない
航空兵で行った兄は、航空兵1次試験は沖縄で合格して
2次試験を鹿児島に行って受けるといって
湖南丸に乗って、やられた
遺骨の入っている箱が届いた
届いたけど
海で亡くなった人の遺骨が入っているわけがない
といって、母が開けてみた
ただ名前が書かれた位牌
それだけが入っていた
子や孫の世代へのメッセージ
戦争というものは2度とやるものじゃない
自分たちが体験したあの苦労を
2度と子どもや孫たちに
味わせたくない
今から、この日本の国を背負って立つ若い者が
いつまでも平和でありますようにと祈っている