証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

照喜名喜代子さん

昭和4年生まれ 阿嘉区出身
「死んではいけない、私たちはこの島にあなたたちを守りにきているのだから」鈴木隊長はそう言った

自決を留めさせた鈴木隊長

どうせアメリカ(軍)に殺されるよりは、自分たちで
死んだ方がいいからみんな集まろうねといって
親戚のおばさんが白い布を持っていた
これをちぎって、みんな目隠ししようね
もう手榴弾は持っているから
これでみんなやろうね、一緒に(天国に)行こうね
といって、みんな集まって死ぬという時に
鈴木隊長さんといって 整備隊の隊長さんが
どうするつもりですか、あなたたちは といわれ
アメリカ軍が来ないうちに
自分たちは早く死んだ方がいいからといったら
「死んではいけない、私たちはこの島に
あなたたちを守りにきているのだから」
私たちがこれから斥候に行ってきて、アメリカ(軍)の
状況を見に行くから、今は死んではいけないといわれ
それで目隠しを取って 手榴弾も置いて
私は行ってきますから、それまではみんな
頑張ってよといって、隊長さんは行った
でも、この隊長さんは 帰ってこなかった
とてもいい方だった、兵隊さんが部落を見にきて
いつも優しくしてくれて
とても尊敬している隊長さんだった
そのまま亡くなって帰ってこなかった

「口減らしのための穴」の噂

兵隊さんも食糧がない 部落にも食糧がないということで
噂か本当かわからないけど、部落のところに
兵隊さんが大きな壕を掘っていた
この壕は部落民を入れて殺すために掘っているから
早く逃げなさいという情報が入った

投降することさえ危険だった

夜に山から逃げた、アメリカ(軍)は海から舟艇で
早く降りてきなさい食糧もいっぱいあるからといって
マイクで呼びかけているから
(アメリカ軍が)殺さないのはわかっていた
日本の兵隊さんが監視している目を盗んで
兵隊さんに見られないように
逃亡は死刑になるのが決まっているから
兵隊さんに見つからないように
夜中に、ウタハの浜から
夜だからとても危ないところだけど
よくもまぁ生きたなぁーと思う
荷物を持って子供たちを連れて手を引いて
自分たちの着替えも持って、降りたら
舟艇が入ってきて(アメリカ軍の兵士)が迎えにきて
歓迎してくれて、すぐ慶留間に連れて行かれた

収容先の慶留間島の様子

(収容所に行ったら)消毒されて
シラミが着物にいっぱいいた
着物を裏返したら(シラミで)真っ白
このシラミは血を吸うから、みんな貧血になっていた
慶留間には食糧がたくさんあった
それぞれ親戚の家にお世話になった
親戚の家の食糧、芋とかを食べて
アメリカ軍の配給も少しあった

阿嘉島の復興の様子

若者が多かった、年寄りはあまりいなかった
年寄りは防空壕なんかで亡くなった

(若者が)青年会を立ち上げて、各家庭の茅を刈って
1軒1軒、家をみんなで協力してつくった
青年会が組合を2つ立ち上げてくれて 豊かに暮らせた

投降を促してくれた兵隊

あの時に逃げなかったら、あの噂通りだったら
自分たちもみんな一緒に亡くなっていたはず
逃げたお陰で みんな(生きている)
残る人は残っていた、たくさん人がいたら
食糧が足りなくなるから逃した、兵隊さんが
この人がどこどこで監視をしているから
ここから逃げなさいと教えてくれた
隊長さんの命令だったはず、兵隊さんの食料もない
部落民を死なすわけにもいかないから
早く部落民は逃げなさいということで、隊長さんの命令
といっていた、詳しいことはわからないが

隊長の戦後について聞いたこと

兵隊さんの野田隊長は、最初は戦争犯罪
といわれて、とても悪く見られていた
自分の特艦隊の(元部下)が会社を立ち上げて成功して
自分の会社にきてくださいという
(元部下が)たくさんいるが、自分はそんな公の場で
歩ける身分ではないといって、車の運転手をやっていた
隊長さんが家にきて話していた
自分は車の運転手をしていると
公の場を歩いたら、取材班に追われて大変だと言っていた

子や孫の世代へのメッセージ

この(インタビュー)の話が出てから、あんなだった
こんなだったと思い出したくないさと思うぐらい
子や孫たちのために後世に残したいから
少しでも自分が生きているうちに
何か一言でも残したいという気持ちで
今までの戦争みたいに、今からの戦争は
こんな戦争ではないと思うが
あんな戦争、2度とやっては(いけない)
それだけでも感じてくれたらという気持ち