証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

宮里つる子さん

昭和9年生まれ 座間味区出身
屋嘉比島での空襲と母の遺体を探してさまよった記憶

屋嘉比島での空襲体験

何回か空襲があった、飛行機が飛んで来て
旋回して弾を落として
空襲の時には、こうして空襲が来るんだなと
防空壕をつくって、みんなそこに隠れていた
飛行機が行ったら、夕方なんかは
(防空壕から)出たりしたけど
家も全部焼かれた、最後の空襲で
最後には、建っている家はみんな焼かれた
もう行くところがない

島へアメリカ軍が上陸

(アメリカ軍が)上陸して来た
夜から(アメリカ軍の)車が
(山)に上がっていた
誰かが何かを撃ちに行こうとしたら
もう島に入って来ていた
戦車が上陸していて
そこから先に行けない
引き返してきた人もいたので
上陸は夜からやっていたと思う
おじぃ、おばぁ、子供たち、おばさん家族もいた
この家族で岩のガマにいて
その日、上陸して
朝早くアメリカ軍が来ていた

避難したガマでの体験

(隠れているガマに)
英語のわかる方がいたから
なんといっているのか、出てきなさいといっているのか
殺そうとしているのか
あなたは英語がわかるから
話しをするために行きなさいといったら
殺さないからみんな出てきなさいと、いっていた
そういっていたけど、本当かどうかはわからない
じゃあ出て行こうとして、被っている布団を置いて
出て行こうか迷っていると
日本兵が入っていると思ったのか
手榴弾を投げられた、ガマの中に
この弾(手榴弾)にあたった人がいる
私の母が、この手榴弾に
アメリカ兵は岩に投げたつもりが、1人にあたった
(他は)誰にもあたっていないのに
もうこんなに(怪我)して
もう見られない、顔、頭にあたって
顔も切れて、手榴弾があたったから
出血もして
ガマの入り口に立っているアメリカ兵に
血のついた物をおばさんが見せた
怪我人がいると見せたら
アメリカ兵がビックリしていた
担架を持ってきて連れて行ったけど
もう命はない
このことを考えると
アメリカ兵は、なんで手榴弾を投げたのか
もう(手榴弾)にあたったら命もない
そのまま亡くなって

母の遺体を探して

それで私たちも出て行って
だけど(母を)どこに連れて行ったのかもわからない
船に乗せて行ったといっていたけど、亡くなったから
海にでも捨てたのだろうと思っていた

阿嘉の浜の方に葬られているという
話があったので
浜に行って掘り起こして
座間味に持って帰ってきた

戦後も思い出す空襲の音と母の死

今でも、当時を思い出させる
変な音をたてて飛んでいる飛行機がある
その音聞いたら
また空襲かなと思うぐらいに感じる
昨日、一昨日も(この音を聞いて)
空襲はこんな音がしていたなという感じ
今でも、空襲のこと
その時の音は忘れない
頭に浮かんでくる、母のあの姿
(ガマ)での姿、あんなにまで怪我した姿
私の母1人に(手榴弾があたって)
頭から…もう見ていられなかった
あんなにして亡くなっていったんだね
私は今でも思い出す、このことは

戦後、子ども達へ体験をどう伝えたか

やっていない(伝えていない)
本当は話をしないといけないけど
親が(戦争で体験)したことを
こういうことがあった、してきたことを
子どもには、こういう話もしておかないと
いけないんじゃないかと考えていた

子や孫の世代へのメッセージ

この「戦争」というのは
絶対ない方がいい
今から(あの頃のような)
「戦争」が始まったら
もう大変だね
ということはわかる