証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
兼島菊枝さん
阿嘉島での幼少期と南洋移住
当時は(阿嘉島に)小学6年生まで
家族と一緒に住んでいた
当時は貧乏で、父は南洋に
出稼ぎに行っていた
母と4人兄弟で生活していたので
水汲みをしたり、草刈りをしたり
薪拾いなどを手伝って親孝行していた
13歳で南洋に
親戚のおじさんの家族と一緒に行った
南洋へ行く船で機銃掃射に遭う
客船ではなく、戦争時の食糧運搬船だから
船団を組んで、駆逐艦が先に行くけど
木造の船艇が、乗っていた船の
両側を挟んで守っていた
後ろの船がやられた時は、黒い煙をまきながら
ブォォって汽笛を鳴らしながら(沈んでいった)
兵隊の診療所
兵隊の診療所は茅葺で
床は竹を組んでつくられていた
そこに病気の兵隊が住んでいた
朝鮮人慰安婦
(朝鮮人慰安婦)は、約3ヶ月の間しか
阿嘉島にいなかった
飯炊きに行ったら、兵隊と一緒に那覇に行って
それからはわからない
その人たちも、連れて行かれるとは
思わなかったと思う
日本に住んでいたのか
みんな日本語が上手で、7名いた
食糧確保の苦労
(空襲)のあと、山のなかに
3ヶ月くらいいた
自分たちが植えたサツマイモを
夜に取りに行く
兵隊に見つかったら取られるから
知り合いの兵隊が
今日は何処そこに衛兵がいるから
食べ物を取りに行くなら
どこの道を通って行きなさいと教えてくれた
部落にも降りて
食べ物を取ったりして生き残った
投降するまでの状況
このままじゃ家族みんな死ぬから
捕虜になろうということで
(アメリカ軍)は人は殺さないよって
屋嘉比の方に残っている人たちが
僕たちもそれで生きているんだよ
といって
その人たちが家族を連れて行く(時に)
一緒に逃げて慶留間に行った
捕虜になった弟の復員
弟は防衛隊ということで
捕虜になってハワイに連れて行かれた
あれから元気になって帰ってきたが
病気で私より先に亡くなった
子や孫の世代へのメッセージ
孫たちや子供たちが楽に暮らせる
戦争のない(世の中)で暮らすのがいい
あまり考え過ぎないようにやっている