証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

深沢敬次郎さん[前編]

大正14年生まれ 駐在場所:阿嘉地区
ベニヤ板の小舟に250kgの爆雷を積んで体当たりをするという話だった

日本陸軍へ入隊し特攻隊員へ

陸軍船舶幹部候補生
その部署の募集に応募した
昭和19年4月に
四国の豊浜にあった学校に入って
学校は下士官の養成所だったが、いつの間にか
小豆島に移って、そこで特攻隊になった
その時は理由がわからなかったが
そのうち若い将校とか見習い士官が来て
そこで特攻隊が編成されて
野田大尉が戦隊長だった
戦隊は104名の隊員で構成
100隻の船で104名の隊員

特攻の意味を知って

軍人を志した時から命を捧げる気持ちだったから
特攻隊になったからといって特別な気持ちはない
軍人に志願した時に
戦争で死ぬんだということで志願しているから

特攻隊に配備された同期隊員の様子

俺は戦争では死なないんだという人もいた
俺は戦争では死なない
死ぬまで勉強するといって
軍隊に入ってからも物理だとか法律を
勉強していた人もいた
外国語で受かったが
(軍隊に入って)英語の勉強ができない
英語の勉強を忘れられなくて
辞書を持って勉強していた人もいた
英語は廃止になっていたけど、その人は戦争が終わると
GHQ(連合国軍最高司令部)の通訳になった

マルレ艇の戦術・訓練内容

小豆島の近くに豊島(てしま)という島があった
その島が訓練基地だった
そこに行って
初めてベニヤ板の船だとわかった
その時に250キロの爆雷を積んで
体当たりをするという話だった
昼の訓練ではなく夜間訓練だから
訓練といっても想定ができない
体当たりするということだけを教わっただけで
その方法は教えてもらってない
船にあたると真空管が自然に落ちるように
仕掛けられている
慶良間で実験したことがある
爆雷の実験
かなりの衝撃で魚が浮いた
その1回だけ

昭和19年11月に那覇港へ

那覇に着いたのは10・10空襲のあと
港に船が横たわっていて
船が(入港)できなかった
10・10空襲後で、かなりひどかった

目の前で雷撃された船

輸送船団が沖縄に行く途中で雷撃されて
燃えている(船)があった
空襲はされないけど対空観測で飛行機の警戒はしていた
それまでは空襲を知らない
雷撃されて燃えている船を見た

染谷少尉について

阿嘉にアメリカ軍が上陸した時に
染谷少尉が真っ先に特攻した
関西の学校で(染谷少尉は)将校で
その時に普段から戦争は負けといっていた
アメリカ軍が上陸したと聞いて
すぐ捕虜になった
その人が6月の時にアメリカ軍の捕虜だから
アメリカ軍の宣撫班になって
沖縄本島での戦争が終わったからと
投降を勧告していた

配属された阿嘉島の印象

他国に来たような感覚だった
いろいろ空気が全部違う
海が綺麗だと思った
(連絡船の人から)透明度が60メートルぐらいあって
世界でも有数なところだと聞いたことは今でも覚えている
海は綺麗、魚も綺麗だった

阿嘉島での1日

仕事がないから、船の修理とバッテリーが
充電されているか調べるだけ
整備隊のバッテリーを担いで
船まで運ぶ
集落から壕に行くまでに峠があった
それをアリラン峠と呼んだ
私たちの部隊の中に
1人朝鮮人街の人がいた
その人に朝鮮民謡とかを教わったりしていた
将校がいない時に
峠で一休みをした、疲れるから
その時に朝鮮民謡を歌った
いつの間にかその峠を
アリラン峠と呼ぶようになった

交流のあった与那嶺家

はじめは与那嶺さんの家にいた
(当時)トイレと豚小屋が一緒
電灯が無くてランプだった
11月だけど蚊がいた
それは覚えている
正月になっても暖かくて
正月気分にならなかった

秘匿壕とマルレ

(秘匿壕には)2隻か3隻あった
大きなところには3隻、小さなところには2隻
小さなドックで船を引き出す、収納するところに
朝鮮人軍夫が来たけど
どうやって船を引き出すか
わからない
引き出したら上げないといけない
(船を引き上げること)ができるかわからない
だから、そういう訓練は全くなかった

3月24日マルレ艇出撃準備

出撃の準備をするので壕に行ったら
壕の近くに焼夷弾がたくさんあった
焼夷弾のなかには
まだ破裂してないものもあった
壕に行くと壕がふさがっていた、中に入れないから
船が安全かどうかがわからない
結局、出撃は取りやめになった

3月27日斬り込み

27日に第1回の斬り込みがあった
(アメリカ軍が)上陸してきたから、隠れながらタコツボへ
移動した、上は飛行機が飛んでいるから
(敵の船に)上がりたくても、上はグラマン戦闘機が
飛んでいた、船と飛行機で両方からの攻撃
前に進めない、曳光弾とか迫撃で
突撃と号令がかかれば
危険を冒して突撃できるけど
部隊がバラバラで突撃の号令が聞こえない
指揮官がどこにいるかわからない
どうするかと迷っていたら
(部隊)の年配の人が戻るかといった
そして、戻ることにした

2度目の斬り込み

2度目の突撃に行った時もバラバラだった
山の中の道を歩いていたら
暗闇だから前の人が見えなくなる
4、5人で動くしかない
そうなると誰が一緒にいるのかわからない
階級も組織も何もない
だから組織的な戦争ができていなかった