証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
中村武次郎さん
10・10空襲の様子
昭和19年に10・10空襲があった
土曜日だったと思う土曜日は学校の農業だから
学校の畑に行ったら
いきなりバララバララと音がしたので
道具を置いて海が見えるところに行ったら
阿嘉から低空(飛行)で(旋回)して
渡嘉敷に行った、1機が
先生がこれは日本の演習ですといった
実際はB29(爆撃機)だった
こっちは(あまり被害は)ないが
那覇は橋と船が相当やられたみたい
(那覇上空)の煙を見た
渡嘉敷の上から、真っ黒くしていた
慶留間島の日本兵
(慶留間)は1中隊400名
阿嘉は2中隊、3中隊800名、本部は阿嘉にあった
(その時は)高等2年、先生が午前中は授業をして
午後からは協力してくださいといって
山を登って下りて行って
何をするのかなと思っていたら
(日本兵が)刈った萱を1束ずつ担いで
谷底まで持って行ったりした
休憩時間に(日本兵が)もし(敵が)上陸して来たら
1中隊のところは安全だから、そこに来なさいといわれた
3月23日空襲時の状況
23日は、いきなりバラバラと音がして
その時、授業をしていたのかは覚えていない
これは敵だと前に経験しているから(わかった)
あと3日で卒業、その前に空襲が始まって
卒業証書もない
昭和20年3月25日が
卒業式の予定だった
(卒業式の)準備もしていた
学校の床下の掃除もして
3月23、24日は空襲
25日は艦砲射撃、26日に上陸
3月26日アメリカ軍上陸
(アメリカ軍が)上陸したと聞いて、山の中から
阿嘉の方に行ったら、阿嘉はもう旗が上がっていた
1中隊に行こうとしたら、バララバララって
(攻撃の)真っ最中だった
また引き上げて
元の壕に戻って来た
家族3人と関係ないおじぃとおばぁも
壕の中に入ってきていた
(当時)姉は20歳、私が15歳
(姉が)お母さん早く(首を)絞めてくれ絞めてくれといった
もう(アメリカ軍が)上陸していると聞いているから
待てまだ早いといいきれなかった
何もいえなかった
母が(姉の首を)絞めて(壕を)出て行く時には
(姉は)冷たくなって(首の紐)も外さないで捕虜になった
避難した家族壕について
(家族壕)は自分が掘った
岩ではなく土だった
横穴を掘って小湾型で
(戦後)何度も(お参りに行った)
(現在は)落盤していて、入り口はもう見えない
島でのアメリカ軍
日本軍とアメリカ軍とで兵器の大きな差があった
全然敵わなかった
船も車みたいで、浜に着いたらタイヤが回って
日本軍にはないものを持っていた
こっちから監視塔がある
阿嘉が見えるところまで
ブルドーザーで3日で道をつくった
日本軍が使っていたのは
ツルハシとエンピ(スコップ)
今考えたら(アメリカ軍は)ユンボーみたいな
(重機を使っていた)当時、日本にはなかった
日本軍の鉄砲は弾を込めて撃ったら薬莢を出してまた撃つ
(アメリカ軍の鉄砲は)1回引き金を引いたら連射できた
(武器の)大きな違いがあった 話にならない
収容所からの解放と伊江島からの捕虜住民
26日に終わって4日間男女別で収容されて
これが終わったら平和になった
アメリカ軍は、もういない
自分の家は全壊しているから片付けをしている時に
5月に伊江島からの捕虜住民
(捕虜の強制移住で)400名が来て
部落の人と一緒になって
(復興)作業をした
家を片っ端から修理した
島の人だけでは出来なかった
5月に来て2年経って、(農業)をして芋を配給
漁業班もいて(とってきた魚)も配給
アダンバー(アダンの葉)でゴザをつくる人もいた
久米島に行って(ゴザと)芋や米と交換して
こうして命をつないだ
こんなに早く(復興)出来たのは
伊江島から来た方々のおかげ
子や孫の世代へのメッセージ
あなたたちの時代には
戦争は2度とやってはいけない、させてはいけない
自分も(体験して)初めてわかった
だからあなたたちの時代には、戦争をさせてはいけない