証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

嘉手納正二郎さん

昭和10年生まれ 阿嘉区出身
漂着物は何でも食べられると思い、ゴムも食べた

危険を冒して投降場所まで移動した島民

山道を兵隊の監視の目を逃れて、山を降りていく
崖の下であろうとなんであろうと
3メートルくらいまでは
飛び降りて逃亡した
ウタハダム、現在の阿嘉島のダムがあり
向こうに逃亡して行って
夜が明けると、竿の先に目立つものを巻いて
振るとアメリカ軍がきて
捕虜にされ、アメリカ軍の車に乗せられ
阿嘉島の住人は慶留間島に

収容先の慶留間島の様子

慶留間島には、岬の方に白い旗が立っていた
日本が無条件降伏したことがわかるように
約半年ぐらい住んでいた

帰ってきた阿嘉島の状況

全滅ではない、建物のある一部は半分破壊され
半分はまだ昔のまま残っていた
アメリカ軍の粉ミルクとか、お米とか
メリケン粉(小麦粉)とかはあった
配給制にして、救済みたいなもの
そういうものを食べた

阿嘉島復興の中核となった青年会

青年会があって、これからは若い者が
立ち上がらないといけないということで
男女問わず一生懸命復活させようということで
茅葺の家を(つくろうと)焼け野原になっていたけど
(海から)流れ着いた物を集めてきて
茅を刈って
青年クラブというのをつくって
そこで色々なことをやった
勉強は学校、仮小屋があった
石の家とかそういう宿舎があった
青年クラブというものができたので
そこの中に何月何月は催しがあると
青年の参加は義務で、誰1人欠けることなく
協力していこうということでやった

阿嘉島の浜辺に漂着する物資

廃棄物が多かった、重油とか
何百隻っていう船が周囲を囲んでいたから
流れてくるのは島の波打ち際で
コールタールになる
そこに流れ着いたリンゴを食べた
リンゴとも知らない、幼少の頃だから
美味しいものだから海水で洗って食べた
浮いているものは
なんでも食べられると思っていた
浮いている柔らかいゴムがあって
口の中に入れて
噛み切ろうとしたら切れない
切れない食べ物もあるんだなと
全く知らないから
その当時は、魚と生ものしか
食べていなかったから
もうあまりにもひもじいから
飲み込んだけど、吐き出した

飲み込むものがないから、まさか海水を
飲むわけにはいかないから、少しは飲んだけど
そういうもので
少しは飲み込んだ覚えはある
これは腹の足しになると思って、山にもセッセと
登って行った、そういうこともあった
同級生が4、5名いた、みんなで浜に行こうって
流れ着いたものがあったから
勝負だった、向こうに浮いているのは
僕のものだっていって泳いで行ってつかまえて
浮いているものは何でも食べられるって
感覚があるから
つかまえたら柔らかい
10センチぐらいの物だったからつかんで
なんでこんなに柔らかいんだろうと思って
食べようとしたら…糞 ウンチだった
この話しは、子や孫たちには必ず話している
今でも話している、そういう状況だったと

阿嘉島での戦争を振り返って

思ったことは食べることと
その当時、病気で亡くなって
おばさんたちの、お腹が膨れて
亡くなっているのも知らないで
このおばさんたちの世話をしていたこと
今だに(記憶に)残っている

子や孫の世代へのメッセージ

戦うっていうことは
人間同士の(性かもしれないが)
誰が何といっても
戦争はない方がいい
我々の時代から、ずっと噛みしめてきた
戦争はない方がいい、やらない方がいい