証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
平田文子さん
父の出征と弟の死
座間味の老いも若きも(総出で)総合センターの前で
みんなで手を振って見送った
(父は)みんなに気兼ねしたのか
文子お母さんのいうことをよく聞いて頑張れよ
ともいわないで、私の前からスッと行った
今だに、まだ帰ってこない
(兄弟は)男の子が2人
女の子が2人
1番下の弟はお腹が弱かった、下痢をして
座間味の診療所では手がつけられないから
那覇に行って入院したが
あれから弟も亡くなって
お父さんもいない
その時、私は8歳ぐらい
みんな子供
あの苦しさは母1人にしか
わからなかったと思う
日本兵との生活について
宮古、八重山に行く兵隊は
阿佐に来て1泊する
民家に宿泊していた
(日本兵が)お嬢ちゃん、自分もお嬢ちゃん
くらいの歳の娘がいるんだよといって
可愛がって私を抱っこして
腿の上に座らせて離さなかった
どこの親でも自分の子供たちのことを思い
可愛がってくれた
3月23日空襲の日
学校の作業で
茅を刈りに行っていた
朝から情報が悪いからといって
来ない生徒もいた
防空壕に朝から避難したよといって
大空襲だった
B29が編隊組んで来た、4機ずつ
パラパラパラっと撃ってきて
私たちは田んぼの中にこうして座って
水が張っている草の生えた田んぼに
敵が来ないうちに
山に逃げようと思って
すぐ側の草山に入ったら
目の前まで火がパチパチしながら
燃えてきていた
怖い怖いといいながら
避難小屋のところまで行った
こっち(避難小屋)に朝鮮の妊婦とか
(青年が)たくさんいた、その人たちと一緒に
この1日は飛行機が(飛んでいたので)
5時半ぐらい、6時前まで川の茂みにいた
ユヒナのガマへの避難
そのあとは裏山のユヒナというところの
自然の壕に行った
ご飯を炊くところは(現在の)私たちの
お墓があるところで、みんなご飯を炊いていた
石を3つ並べて薪で(ご飯を炊いていた)
このご飯が沸騰したら
鍋をまたいで自分の鍋を守らないといけなかった
まだ火は燃えているのに
(鍋を守らないと)
鍋を日本兵が持って逃げていった
(日本兵に)盗られないように
ご飯を炊いている鍋を(守らないといけなかった)
夜は真っ暗なので
夜に道で(人)と会ったら
私たちは同じ日本人と
(わかるように合図をした)
相手が「信念」といったら私は「必勝」という
それで仲間をみわけていた
「必勝の信念は必死の訓練より」
と学校で習った
整備中隊壕での集団死
こっちに整備中隊の壕といって
大きい壕がある
(その壕にだけ)
日本軍の非常食を保管していた
みんなが食料を盗みに
この壕に入った
運悪くこの壕で何10人もの
座間味(の人)が玉砕した
首を締めて殺して
私の親戚もそれで亡くなった
(遺体)に毛布を被せて
寝かせていた
真っ暗で物も見えない
母と姉の話だと
(遺体を踏んで歩いたら)ピシッピシッと
人間の汁の音が聞こえた、踏んでいる時に
奥まで行って(ようやく)散らばっている
粉味噌をこれくらい取って
洞穴(ユヒナのガマ)に
持ってきた
捕虜になり収容所へ
捕虜になるときは、座間味や阿佐の人みんな
崖から上がって荷物も頭にのせて、とても(苦労)した
だけど私たちは家の前まで
アメリカ兵が来て
上陸用舟艇に私たちは乗せられて
座間味にまわった
座間味に行ったら
叔父は40代の若者
叔父1人は、家族と一緒には
させないで別にされて
座間味のウカジンというところで検査をされた
軍人か民間人か調べられて
(叔父が)民間人だとわかって
1時間後に阿真の避難小屋に帰ってきた
阿真部落にテント小屋が3つぐらいつくられていて
座間味の人も帰れないから
みんなテント小屋で生活していた
朝起きたらすぐに浜に物を拾いに行った
何か流れ着いていないかと
チキンの肉とか
なにか黄色い脂とか流れてきたら
人間の肉か本当にチキンの肉か、わからないけど
拾って、炊いて食べた
学校へ行けなかったが故の苦労
今の職場に就職した時に最終学歴がでた
座間味の学校の12歳までという証明書
私は日本専売公社に
書類を出して
同じ同僚でも、後輩たちはいい学校を出ている
でも私たちは無学
でも年齢給はあるから(同僚)たちより年齢給は
あるから、この子たちより給料が高かった
ヤナハーメーグヮーター(おばぁたち)は何も
できないくせに、給料だけは高いと馬鹿にする
絶対に負けるものか、手も足も同じ2本ずつだから
人ができる仕事は無学でもできるんだと
(タバコの)賞味期限の
訓練も1番だった
もう必死に生きようと思って
子や孫の世代へのメッセージ
自分の可愛い孫たちに、戦争の赤紙がきたら
這ってでも総理大臣のところに行って断るつもり
世界平和があるために、みんなが立派な生活をして
世界中の人が仲良くして
いつも私の主人がいっていますよ
世界平和っていいね