証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
田中美江さん
座間味村で最初の戦死者であった父
父は昭和13年の8月29日に支那事変で
座間味村の1番最初の戦死者だった
当時は勝ち戦していたので
阿嘉からも慶留間からもみんな来て
一斉に葬式はやってもらった
私も小学5年生の3学期に
靖国神社参拝に行った
そこで「父に対面して」
という作文を書かされた
靖国神社の鏡の前に行ったら
こちらにあなたたちのお父さんたちはいますよ
自分の想いをいいなさいといわれた
私は1番歳上ですから姉弟4人の中で
「お父さん大きくなったよ」と
お父さんが美江ちゃん大きくなったね
お母さんの孝行もして、弟妹の世話もするんだよ
といわれたような気がして
そういう(内容の)感想文を書いたと思う
3月26日空襲の日
23日空襲が始まった日は
学校生徒5、6年生以上のみんなが
阿佐のマチャンという山に開墾に行った
芋を植えるために
学校から遠いマチャンまで
歩いていくまでに
飛行機がいっぱい飛んできて
(山に)着くと同時に爆弾攻撃が始まった
阿佐の山も全部焼けた、その23日で
3日間で燃え尽きたはず、座間味は
阿佐の山からずーっと続いて
3日間燃えていたそう
その当時、家の周囲は全部フクギが
いっぱい茂っていたから
こっちに隠れても飛行機から見えないくらい
もう隠れきれなくなった
あまりに空襲が激しすぎて
部落にもどんどんやってきて
こっち(部落)ではダメだから
ユヒナのガマに行こうということで
ユヒナガマでの自決について
先生がいた、国民学校の
座間味はもう、役場職員が自決する人はマカーの
神社の前に集まるように声をかけているそうだから
「こちらの方でもそろそろ始めた方が
いいんじゃないですか」と先生がいって
「はい」といって、すぐに行った
妹や母は行かない
ただ見て「はぁ?」といって
見ているだけで
もう(自決を)するのが
当然だと思っていた
だけど「自決しなさい」とは、いっていなかったと思う
(強制自決)の話もあるけど
先生が、自決してもよろしい?
よかったら美江さん先生の側にきて座りなさい
先生も残念だけどもう本当に涙ぐんで
先生には家族もいた
上原先生といって
那覇から来ていた先生だった
手榴弾を打ったけど
不発弾みたいで破裂しなかった
それで(手榴弾が)破裂しなかったから
先生はカミソリを研いでいたそう
首を切って死ぬために
その時には私たちも怖くなった
こっちから逃げないと先生に殺される
1人逃げ2人逃げ、ヌンドゥルガマに移った
ヌンドゥルガマでの体験
夜、田んぼに行って、たまり水を汲んで
飲み水を取ってくる
私と従姉妹のあいちゃんと
2人で担いでいたら照明弾が上がった
(バケツを)波の上に置いて穴に隠れた
穴から出てくるまでに、バケツはどんどん流されていった
夜はアメリカ軍は出歩かなかったのか
アダンの木の下に、ご飯を炊きに行った
大和馬というところに
日本軍の食料庫の壕があった、谷底に
(大和馬にお米が)あるということはわかるから
何名か揃って取りに行ったら
そのころから、この(大和馬)壕の中で
いっぱい自決していたそう
当時は、もう腐りかかっていたというから
だいぶ日にちが経っていたと思う
電灯も無いし、手探りでやったら
遺体がお米の上にあるもんだから
足を踏み入れたらゴーっと足首まで
お腹の中に入ったそう
そういうところから、お米を取らないと
子供たちをひもじくさせると思って
かき除けて取ってきたそう
もうやっとお腹が満たされたような
それでも、もう毎日が恐怖心だった
いつ捕まるか、いつ捕まるかって
アメリカ軍の捕虜になった時
ここからまた小さな(隠れる)穴を探して
自分たち親戚だけ入れるところに行って
母が用足しに外に出るとアメリカ軍に
見つかり、すぐに無線をうたれて
すぐにアメリカ軍が
穴の入り口に来ていた
わいわい騒いでもどうしようもないから
静かにおとなしくして「もうこれで終わりか」と思った
それから阿佐部落まで行って上陸用舟艇に
乗せられて、阿真まで連れて行かれた
戦争が終結した頃の阿佐集落
その時からみんな楽しんでいた、青年団は踊り
なんかもするし、部落で演芸会もするし
学校も運動会があるし
だけど学校の運動場はまた大変だった
アメリカ軍の十字架が
いっぱい立っていた
その当時、復員してきた人たち
みんな軍作業をしていた
古座間味のビーチは
アメリカ軍のゴミ捨て場だった
なんでもあった、今のスーパーにあるものは全部
それ以上にあったんじゃないかな
服とか布団とか鍋とか色々なもの
食べ物はそのまま、肉もまるまま
野戦食カンカン(缶詰)があるでしょ
こういうものとか
メリケン粉(小麦粉)は
海から波に乗ってきていた
もうなんでもあった、そしてこれを拾って
久米島に物々交換に行った、漁船は
久米島から芋を持ってきて
それをみんなに配給していた
戦争が終わってからのアメリカ兵
アメリカ軍には、夜ジープに乗って
夜這いにくる人もいた、阿佐部落に
被害にあった人はいない
1人のおばさんがジープに乗せられて
連れて行かれたらしいけど
車が止まる時に逃げて、松の木の下に隠れたら
(アメリカ兵は)探しきれなかったそう
このおばさん1人だね連れて行かれたのは
でも被害にはあっていない
子や孫の世代へのメッセージ
戦争がないように
みんなで頑張りましょう
決して戦争を起こしてはいけません
みんな頑張ってください