証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

嘉手納喜代子さん

昭和10年生まれ 阿嘉区出身
米兵がガムをくれようとしたが、母は「毒が入っているからダメだ」と言った

突然の空襲

10月10日の空襲は
空襲とは全然わからなくて
カワミシの上から
アメリカ軍の飛行機が(撃つ)弾が見える
前から(飛行機の)音がおかしいので
先生あの音は変ですよ
今までの飛行機の音とは
全然違うといったら
大丈夫、勉強しなさい
と怒られて
目の前で飛行機が
機銃を撃つのが見えて
その時、先生に
みんな伏せーといわれて
敷いていたゴザをかぶって
みんな山の中に隠れた
すごい防空壕を掘ってあった
おじさん、お父さん
元気な人が多かったので
地下に入って行くような、ロウソクも
消えるぐらいのすごい防空壕があって
湿気が入らないないように
壁も編んでつくられていた
山が燃えているのも全くわからないぐらい
すごい防空壕だった

シジヤマ(スギヤマ)への避難

あなたたちは、ここ(防空壕)にいつまでもいて
スパイするつもりか(山)に上がりなさいといわれて
日本の兵隊が連れに来た
外に出た時に、軍艦の(砲撃の)火が天半ばまで
どんどん上がっていた
電灯も無い夜道を(砲撃の)明かりで、兵隊にシジヤマ
(スギヤマ)に上がりなさいといわれ歩いたのを覚えている

シラミに悩まされる シジヤマ(スギヤマ)での生活

着の身着のままで、お風呂に入ることも
女の子だからできない
シラミが髪から降りてきて
着物について血を吸う
栄養不良の血を、このシラミが黒じゃなくて
赤いシラミになっていた、血を吸って
血を吸っているのが見える
お腹の方で

投降、夜の山道の中で

夜中に母が(私を)起こして
「何も持たないよ」というから
自分の鞄には、お金は入っているし
帳面とか本とかも入っているから
これだけは絶対離さないと思って
おんぶして
母の後を追って行ったら
母が子供をおんぶしたまま河原に落ちた
私たちが、お母さんが死んだって
大きい声で泣くと
(母が)大丈夫、今ここで大きい声を聞かれて
監視に見つかったら、私たちは死刑だよといわれて
泣き止んで、お母さんを抱き起こして
そして後を追って降りたところは
ウタハというところだった、そこで夜が明けると
みんな島影に隠れなさいといわれて
隠れていると
誰かが白旗を降ったんじゃないかな
海峡はアメリカ軍の飛行機やら船やらで
ぎっしり詰まっていた
舟艇の出入口がパカっと開いて
黒人が銃を持って降りてきた
みんなワーワーワーと騒いで
あっちこっちで子供が泣いて
ガムをポケットから出して噛んで
You, You といって渡そうとした
(毒が入っいてるから)絶対に食べたらダメよ
と母にいわれて食べなかったら
自分の口に入れて噛んで見せたり
やっていた
南洋帰りの人は、黒人を見たことあるから
びっくりしていなかったけど
私たちは初めて見る外国人だから
みんな泣いて
連れて行かれたのが慶留間島

帰ってきた阿嘉島の状況

帰ってきたら家も何もない
私のおばさんの家があり
その家は少しは壊れていたけど
自分たちで鉄板とか軍の使い残しとかを
担いで持ってきて
炊事場みたいなものを
自分たちでつくった

火薬で大火傷を負った兄

私の兄は亡くなったけど
次男兄さんがいたずらして
米軍の使い残しの火薬か何かを
いじったんじゃないかなちょうど旧暦の正月だったかな
私は妹をおんぶしていて
向こうから、お母さんといって
泣き声が聞こえる、兄が火傷して
ここに火がついたんじゃないかな、裸になって
顔から全身火傷していて、泣いて帰ってきた
母たちは、1日だけど食べ物もないので
潮干狩りに貝をとりに行って、(家に)いなくて
妹をおんぶしたまま、母たちを探しに
行こうとしたが、どこにいるのかわからない
(現在の)ヌンドゥルチのお宮が
アメリカ軍の事務室になっていた
そこに、知り合いの人に連れて
行ってもらい、治療してもらった
生きると思わなかった、顔も真っ黒で
火が着いて大きな範囲で焼けていたから

父との思い出

父がハワイで炊事の手伝いに入っていて
そばのつくり方を習っていた
帰ってきたら、アメリカ軍の配給といえば
メリケン粉(小麦粉)とか油しかないので
そばをつくって
みんなに食べさせていた

子や孫の世代へのメッセージ

戦争はない方がいい(この苦しい記憶を)
忘れることはできない、苦しい経験をしたから
子や孫のためには、こんなおばぁちゃんやおじぃちゃんも
いたというこの(記憶)を残したい