証言 ――― 戦争体験者たちの言葉
宮平ウメさん
3月23日の慶良間への空襲
3月23日、日本軍のご飯を炊きに
朝行った、いつも通り
焚付けをしようとしている時に
兵隊が今日は焚付けできないから
整備中隊の壕に避難しなさいと
いわれた
今日はいつもより情報が悪いから早く行きなさい
といわれ、整備中隊の壕に行った
壕に行って何をすることもなく
1日中、壕の中で避難していたら
炊事の娘たちに、こっちに上がってきなさい
といわれ「はい」といって行くと
窪んだところから上に登って
西の方を見てごらんといわれ
見たら海が穏やかで
とても綺麗、波一つない
「いい天気ですね」といったら
あの水平線を見てごらんといわれ
望遠鏡で見たら、船じゃなくて
何か島を引っ張って来るような
高い(船)もある、低い(船)もある
こう並んで来る
もう、あればっかりは忘れられない
これから私たちは戦いに出るから
女が兵隊と一緒にいたら、足手まといになって
思うように戦えないから
あなたたちは家に帰りなさい
といわれて
家族も避難していて
どこの山に行ったのかもわからない
「お母さん、機動部隊が来るよ」って
騒ぎながら、家族を探した
そうしているうちに、各家々にお世話になっている
兵隊が、その家族を探しはじめた
もう機動部隊がやって来ます、私たちはこれから
戦いに行くのでお別れに来ましたと兵隊が来た
私たちは自分たちの家族を探して
山に向かうが
あっちから来るから
あっちに逃げようといって
村中のみんなが、人が行くところについて行って
騒ぎながら(山を)登って行く
みんな一緒だと行けないから
あっちこっちに、みんな別れて逃げて
山に登ったら海が見える
怖さもありながら、海を見たら
遠くに見えていた島のような船団が
渡嘉敷のところまで水面が見えなくなるぐらい
船がいっぱい来ていた
シジヤマ(スギヤマ)へ移動して、自決について
私たちが避難しているシジヤマ(スギヤマ)というのは
部落から上がって1番高い山
この山の後ろに、山と山の間に窪みがあって
この窪みに避難したもんだから
(アメリカ軍)は山の1番高いところに弾を撃つ
そこが日本軍の本部だから
それをわかっているから
(日本軍本部を狙って)撃つ
(日本軍本部)にあたって炸裂した弾の破片が
花火のように落ちてくる
1ヶ月ぐらいはみんなで一緒に
シジヤマ(スギヤマ)に集まって
集まってというよりは
そこしか逃げ場がないから
山と山の間の窪んだところは、木々も残っているけど
そこ以外は全て焼けて、隠れるところがない
もう村の人みんな一緒に死んだ方がいいから
といって集まった
アメリカ軍が上陸し(捕虜になると)
若い女はおもちゃのように弄ばれて
年寄りや子供は殺すけど
若い女は絶対に殺さないといわれた
弄ばれるぐらいなら
死んだ方がいいから
死ぬのは怖くなかった、死んだ人を見て羨ましくて
(弄ばれなくて)良かったねといっていた
食糧難について
山の中では、はじめのうちは
なんとか出来たけど
5ヶ月という月日
多くの兵隊もいるので、食料がなくなった
野菜、カンダバー(芋のかずら)などもない
山の畑からも取ってきていたから
なにもないから
今度は(食料庫)のお米
(食料庫が)焼けて散った
虫のついたお米を持ってきた
このお米を水で洗ったら3分の2ぐらい
浮くんじゃないかな虫と一緒に
沈んだ少しのお米だけを取って
(鍋)に入れて
野菜がチーパッパ(つわぶき)と桑の葉と
カンダバー(芋のかずら)があれば全部刻んで入れて
粉味噌と粉醤油、軍の物があった
それを入れて水を入れて
野菜だから炊いたら少なくなる、半分になったら
またカゴのいっぱい(野菜を)入れて
(鍋の)淵の高さまで
(鍋いっぱいにして)煮る
これを飯上げして
フキと桑で凌いだ
阿嘉島の戦後の状況
(集落に)帰ってきたら、あっちもこっちも
家は(燃えて)なくなっていた
私の家は残っていた
1軒に(数世帯で生活していたが)
このままじゃ生活できないから
焼けて崩れている(家)を片付ける
部落の清掃からはじめた
座間味島で見たアメリカ兵
家にいても
アメリカ兵が来たって聞いたら
捕まったら大変といって
人がいるところに逃げたりした
私1人だけじゃなくて
みんなそうしていた
言葉もわからないから、会話どころじゃない
私たちは怖くて逃げた
戦争体験の伝承
戦争の話は、他人に聞かせようとしても
本当の(言葉を)出しきれない
胸に収まった(気持ち)や、昔のことだけど
機動部隊のこととか、頭からぬけない
(子供たち)に話をしようとしても
聞きたくないといわれる
子供には、戦争の話はしていない
子や孫の世代へのメッセージ
何が何でも、戦争はしないことにしてください
絶対に戦争はやってはいけません
若い子供たちに
戦争はしないように教えてください