証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

垣花武一さん

昭和5年生まれ 阿嘉区出身
義勇隊(少年兵)へ招集されるのは名誉なことだと思っていた

義勇隊、少年兵の戦闘能力

当時駐屯していた部隊長の命令で
権限もないのに強制的に召集された
(義勇隊になるのが)名誉だと思っていた
日本軍の手助けをすることが
軍国少年としての名誉だと思って
召集を受けた時には喜んだ
よくいわれるのは、15歳で戦力として役に立ったのか?
時の15歳は大人
体はそんなに成長していなかったけど
精神的にはもう完全に大人
中学校に進学すると
必修科目は教練だった戦闘教練
だから当時の中学生は全員兵隊(みたいなもの)
学校に鉄砲があった
先生方の中には、必ず4、5名の軍人がいて
軍事教練を担当する先生がいた
週に3回は実践さながらの訓練をした
年に1回、全沖縄中学生総合訓練
というのがあった
実戦さながらに、那覇から首里城を
敵の陣地と仮定して攻める
こっちは一中、二中、三中、相手は支援学校工業生が守って
2、3日かけての攻防戦をした
その指揮を執ったのが教練の先生
だから戦時中の学徒兵というのは
正規の兵隊にも劣らない戦力を有していた
少年といえど

元日本兵と島民の交流

戦後、(島)にいた特攻隊たちは帰り
慰霊祭の時に島に来た、27年ぶりに
我々もその時には
共通語も対等に話せるから
君達が昔からそうだったら
僕らも変な目で見なかったのにといわれた
この交流があったから、彼らの誤解も解いて
交流がなければスムーズにその誤解も解けなかった
集団自決がなかったおかげで、戦後、
元軍隊と島民との交流が
この島だけは盛んに行われ、今でも僕は交流している

慶良間諸島に配置された特攻兵

(特攻艇)が(日本軍の)主な武器として配備されていた
しかし特攻隊300名を配置しているのに
それが出撃出来なかった、アメリカ軍に先手を打たれて
潰されて特攻の機会を失った
それで日本軍の戦略は台無しになった
そのおかげで特攻隊の何百名かは生還できた
本来なら特攻として出撃して全員玉砕
全員死ぬ身分だった
(元特攻隊の)人たちと戦後に交流があって
あの当時、自分たちは死ぬ覚悟で来たけど
アメリカ軍の作戦のおかげで
自分たちは生還することができたといっていた

日本兵に殺された祖母の弟夫婦

弟夫婦の祖父は大阪で働いていて
奥さんは和歌山県の出身だった、子供はいなくて
昭和18年に引き揚げてきて
島に20年ぶりに帰って来た
関西弁が達者で、(島では)珍しいから
兵隊からも慕われて
兵隊の兵舎づくりも率先して
この人が指揮を執ってやっているのに
アメリカ軍が上陸した日に
捕まってしまった
おばぁちゃん(奥さん)の足が弱いため
避難できなくて
集落の近くに潜んでいたところ
捕まった、捕虜第一号
アメリカ軍はそのおじいちゃん、おばぁちゃんを保護して
慶留間にでも連れて行けば問題なかったのに
そのまま集落に置いた
2人はアメリカ軍から缶詰とかの食料をもらって
潜んでいるところに
日本軍が嗅ぎつけて来て
お前たちはアメリカ軍から色々な食料をもらった
間違いなくスパイだといって、引っ立てられて
無残にも
日本刀で(首を切られた)

3月23日 空襲の日

日本軍に召集を受けて軍隊の中に入っていた
山で周囲の状況を監視していたら
渡嘉敷の上からグラマンアメリカの艦載機の一軍が
鷹の大群のように押し寄せてきた
目標もクソもない島全体が目標
野や山、集落、全部焼かれた、その1日で

少年兵の任務・装備

少年兵が18名いた
武器の配給を期待していたら
君たちに渡す武器がないと
手榴弾を2個渡されて
敵に遭遇した時には、この2個で戦え
1個は敵に捕まる恐れがあるなら、これで自決しなさい
という命令で、手榴弾を2個渡された
しかし実際は、アメリカ兵とは相対して
戦ってないから、この手榴弾は使っていない
主な任務は水汲み、食糧運搬
弾薬運びこれだけ
防衛陣地は山の上に築いて機関銃があった
ありったけの装備を駆使してアメリカ軍を攻撃した
(アメリカ軍)も反撃してきた
我々はその間を縫って
弾薬の補給や水を配ったり
食糧の配給をした
もう命がけだった
我々が兵隊よりも働きは上だった
そういう働きがなければ
兵隊たちは戦えなかった

阿嘉島の戦い

もう必死の思いですよ
弾丸が飛び交う雨あられの中
食料運んだり水運んだり
必死の思いで生きた心地しなかった
それがいつの間にか一瞬のうちに慣れる
恐怖というものがなくなる
擲弾筒を撃っていた5、6名の日本兵がいた
そこに敵の迫撃砲が直撃した、もう一発で
6名の兵隊が吹っ飛んで亡くなって
その人たちの血をかぶる
血の雨とはこのことだと実感した
(飛び散った)臓物が
木の枝にぶら下がっていた
初めて戦死した兵隊の無残な死体を見た
これが戦争なのか
これが戦だと思った
あれは今でも頭に残っている

子や孫の世代へのメッセージ

無残で凄惨な経験をしたから
やっぱり戦争に繋がることはやらない方がいい
自衛隊というのは国を守るから
いいんじゃないかという人もいるが
国を守るという一言でいえばいいことだけど
でも軍隊を持って守るということはどうかと思う
もっと平和教育をやれば、平和外交をやれば
国を守ることができると思う
戦後70年間、戦争をしていない
戦死者もいない
そんな国は他にない
優秀な、我々は日本国民ですよ
その精神をいつまでも持ってもらいたいと
子供たちに伝えたい