証言 ――― 戦争体験者たちの言葉

平田文雄さん

昭和4年生まれ 阿佐区出身
竹槍を持って戦えということは行って殺されなさいといっていることと同じ

読谷村で従事した防衛陣作り

陣地構築に駆り出されて、象の檻(楚辺通信所)が
読谷村にあった、そこの下に楚辺という集落がある
楚辺の海岸近くで座間味の黒っぽい
岩ではなく石灰岩みたいな
あまり頑丈じゃない岩を
ツルハシで掘らされた
(日本軍は)そこから上陸することを予想していた
実際にそこから(上陸している)から
(敵が)上陸してくる時に(備えて)
なだらかな土地を削って断崖にする
さらに岩を逆に掘る
海岸から上陸する時に、ここにぶつかって
上陸できないようにという日本軍の作戦だった
予想もつかなかったのか、アメリカ軍には
捨てるほど砲弾やら何やらあった
砲弾でグジャグジャに崩してから
上陸してきた
(アメリカ軍の情報もなく)
掘らされた壕(防衛陣)は何の役にも立たなかった

10・10空襲での体験

家の前の道路で騒ぎ声が聞こえて
そこへ行くと、みんなが那覇の方を見ていた
もう那覇の上が真っ黒、その黒煙の中を
無数の飛行機が出たり入ったり
日本兵が2、3名(一緒に見ていて)
あれは日本の演習だよといった
情報管理で悪い情報は
絶対に流さなかった

家を宿舎にしていた日本兵について

家に日本兵が多数いた
全部民間に割り振りして
当時の座間味の兵隊は
寝泊まりしていた
家にいた(日本兵)は家族のように
(私を)坊や坊やとかわいがってくれた
アメリカ(軍)が上陸して
そこにチシ展望台がある
(チシ展望台のところに)松林があって
そこにみんな集まっていた、兵隊も(島の人も)
そこで坊や坊やと呼ばれ
行くと手榴弾を1個渡された
それ(手榴弾)でお前が死ねという意味じゃないよ
敵に見つかってどうしようもない時に
これで時間稼ぎをしろ
といわれた

3月23日空襲の日

(家族は)畑仕事でみんな離れ離れで
祖母はいたけど、私1人だけが
機銃掃射のなか
身を隠しながら防空壕に行った
上を見上げる余裕もなく、とにかく逃げるんだ
そういう記憶しか残っていない
防空壕に入ってからは、アメリカ(軍)は山を
焼きつくすために、所構わず機銃掃射をした
機銃の小さな弾なのに
地面が揺れた

収容所から阿佐集落へ帰って来て

やっと解放された
というような感じ
若い者たちは恋もするような
そんな雰囲気だった
自分の屋敷でも団体生活なので
勝手には使えない、みんなが住み分けをして
1軒に4部屋あったら
1部屋1家族が住む
1軒の家に少なくとも
3家族ぐらいは住んでいた

慶良間の戦いを振り返って

新兵器を持っているアメリカ兵に突っ込んで行って
果たして竹槍が使えたのか
竹槍を相手に刺す前に
殺されるのが当たり前なのに
それぐらいもわからない軍隊が国民を
指導していたのか、という思いでいっぱい
日本軍の兵器とは違って、連続で弾が撃てる機関銃
みたいな小銃を持っている(アメリカ兵)に
竹槍を持って戦えということは
行って殺されなさいといっていることと同じ
そこをどう考えて、当時の軍人たちは国民を指導
したのかなと、そこが今だに理解できない
黙っていてはいられないから
(竹槍で戦えという指示)をしたのか
そのへんが疑問で
まあ負けるべくして負けた

戦争体験の継承について

子供たちに平和の尊さを教えるということは
戦争体験の話を疎まず
むしろこっち(体験者)から積極的に、子供たちに
聞かせていくということが大事じゃないかなと思う
現在の総理大臣をはじめ国会議員には
誰1人、戦争体験者はいない
太平洋戦争の二の舞にならないか
いつもそれを心配している
だから戦争体験を聞きたい人がいれば
知っていることは話しておきたい

子や孫の世代へのメッセージ

絶対に戦争しない国であってほしいと思う
尖閣諸島(問題)があるから八重山にも基地をつくる
とかいうけど、基地があるから攻撃の的になる
今までの体験からすると、基地があれば敵を防げる
ではなく、逆に敵を呼び込むと私は思う
戦争をするのは政治家が決めるけど
戦争に直接行く政治家は1人もいない
若い世代で後々、国会議員になる人も
いるかもしれないけれど
戦争で物事を解決するのではなく
外交で(解決する人に)なってほしい